広島自治体問題研究所
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2024年10月号

 (2024/09/20)
 
表紙の写真「全損保の碑」(建立 1965年8月6日) = 橋本和正さん
 被爆当時、市内には14の保険会社に200人の社員が勤務、そのうち89人が原爆の犠牲になった。
 この碑は、広島の全損保労働組合が全国の仲間に募金を呼びかけ、碑文や碑の形も募集した。「なぜ あの日はあった なぜ いまもつづく 忘れまい あのにくしみを この誓いを」という碑文。
 

2024年9月号

 (2024/08/23)
 
表紙の写真「広島市原爆死没公務員慰霊碑」 = 橋本和正さん
 1965年12月18日建立 広島市役所本庁舎前庭
 慰霊碑建立と合わせた実態調査によると、粟屋市長(当時)をはじめ、原爆の犠牲となった市役所職員及び市会議員死没者数は445名。
 爆心地から1キロメートルの位置にあった本庁舎は、躯体は残ったが、内部は焼失。
 

2024年8月号

 (2024/07/19)
 
表紙の写真「広島県職員原爆犠牲者 慰霊碑」 = 橋本和正さん
 1958年8月6日建立。広島市中区加古町、アステールプラザの南西、本川河岸緑地。
 この辺りに当時、広島県庁(爆心地から850メートル)や広島県病院があった。木造の広島県庁舎は倒壊・全焼し、職員の多くは即死か倒壊物の下敷きとなったまま焼死した。碑の横に犠牲者1,134人の名前が刻まれた名録碑がある
 

2024年7月号

 (2024/06/20)
 
表紙の写真「広島原爆爆心地 島病院(現、島内科医院)」
                       = 橋本和正さん
 1945年8月6日午前8時15分、原子爆弾投下。島病院が爆心地となった。病院は玄関の柱を残して全壊した。医師や看護師、患者約80人が亡くなった。
 

2024年6月号

 (2024/05/23)
 
表紙の写真「ヒロシマの碑」(1982年8月5日建立) = 橋本和正さん
 広島県高校生平和ゼミナールによる被爆瓦保存活動の一環として、建立された。
 平和ゼミナールが活動を開始した1977年頃は、元安川には原子爆弾投下で散らばった原爆瓦が川底に多く埋まっていた。原爆瓦を発掘、保存する運動は子どもたちから修学旅行で広島を訪問する生徒たち、市民の協力へと広がった。 
 

2024年5月号表紙絵

 (2024/04/19)
 
表紙の写真「慈仙寺の墓石」 = 橋本和正さん
 
 慈仙寺は爆心地から約 200m、全ての建物は壊滅。爆風で境内にあった墓石も吹き飛ばされ散乱しました。被爆当時の姿で残されたこの墓は、広島藩浅野家の岡本宮内のもの。池のように見えるが、この部分が当時の広島の地面。
 

2024年4月号

 (2024/03/21)
  表紙の写真「原爆供養塔」 = 橋本和正さん
 1955年8月5日建立。1946年、広島戦災供養会(超宗派団体)を中心とした市民の寄付により
仮設の供養塔、納骨堂、礼拝堂が建立された。老朽化で現在のものが建立された。
 被爆直後、爆心地に近い慈仙寺(現在の原爆供養塔付近)の境内は、臨時火葬場となり、無数の
死体が火葬された。その後、市内の復興や平和記念公園などの建設が進められ、瓦礫の中から次々
と見つかった遺骨も収められた。
 

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